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太田 裕子(仮名)


私は受洗の恵みに満たされ、まだ日の浅い者ですが、神様の奇しい御業を讃え、振り返り少し記させていただきたいと思います。
私は以前、統一教会に属し、文鮮明氏を再臨のメシアと信じていました(統一教会では、イエス様は救いを完成し得ず、その使命を継いだのが教祖文鮮明氏であり、再臨のメシアであると説く)。幼い頃から家族の者の離別や病、様々な問題が有り、生きることに疑問を抱いていました。いろいろなものを求めてみても答えが出ず希望を失っていたとき、統一教会員の一人の女性の方から、「聖書の真理を学ぶサークルです」と誘われ、原理(統一教会の教え)に出会いました。高校の近くの教会へ通いながら原理を学ぶようになり、内容は初め漠然としていましたが、教会員の方々の真剣な姿に次第に信頼を置くようになり、そして「今メシアに出会えた」という思いに強く動かされ、統一教会の道に入ることを決心しました。大学に入って後、家を出て、統一教会に学生として住み込み、原理の説く地上天国完成を目指して、断食、水行、祈祷を繰り返し、伝道その他教会活動を続けました。
しかし家族は強く反対し、私を救い出す為に、大きな犠牲を払って努力を続けてくれました。けれど私は、原理こそ御旨と信じ頑なで、その間の家族の苦しみはどれ程だったかと、本当に申し訳なく思います。そして、家族や親戚、他多くの方々によって、私は様々な経過の後、あるクリスチャンの方(当時、漆崎先生は会社員でした)の許での聖書の学びに導いていただきました。
その方は、統一教会の批判をするのではなく、福音を語ってくださいました。私は初め、自分が聖書に全く無知であった事に驚きました。一ヶ月の学びにわたり、私の歩みは遅く、尚も統一教会が思われつつも、私たちの罪を(あがな)う為には、神御自身であられながら罪を他にしては完全な人間性をとりたもうたイエス・キリストの十字架による救い以外ない事に同意しました。そして、「わたしに従ってきなさい」と言われるイエス様の御言葉(みことば)が思い起こされ、私はそれに拒み得ず、統一教会脱会を決意していました。名古屋に戻ってきた足で統一教会に赴き、かつての兄姉に脱会の意を告げました。責任者の方々とも話し合いましたが、もはや行く道は異なり、涙を流しつつ別れました。
救出された後、自宅に戻り近くのキリスト教会に求道者として学び始めました。周りの方々の暖かい理解と励ましにより弱々しい歩みを守られましたことを覚え感謝いたします。原理により形造られた自分を一切捨てて新しくされたいと願い、牧師先生の語ってくださる聖書の話をお聴きしました。そして、かつて罪を認めていたと思っていた自分が、ただ罪の結果の悲惨さを自分勝手に嘆いていたにすぎず、却って問われるべき罪をあいまいにしていたことを知りました。自分自身の賢しさで歩んでいた私を、神様は砕いてくださり、イエス様を十字架につけた敵とはまさしく私自身であったこと、そしてイエス様の十字架は私の為であったことを教えてくださり、悔い改める心を与えてくださいました。原理の提示していたものは、裁きのない妥協、悔い改めのない信仰だったと感じます。赦されて一昨年6月受洗の恵みにあずからせていただき、かつて統一教会にあって救いを完成させようと焦った心は去り、「わたしはすでに世に勝ったのである」という御言葉どおり、平安をいただきました。
今も統一教会で、神様の為と信じ歩む方々、またその御家族を思うとき、心が痛みます。これからの方々の上に、神様の御導きがありますよう心からお祈りいたします。またそのような中から、聖書に導かれて真の喜びを見い出された方々が多くあり、主の深いお取り扱いを心から感謝いたします。
もし家族の働きかけがなければ、今も滅びの道を歩んでいたに違いありません私を、燃えさしの中から主は拾い出してくださいました。この喜びと感謝をもって、歩ませていただきたいと願っております。「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。」(聖書 Tコリント1章18節)